Yase_umaumaの日記

一介の大学生の、主に風呂場での思いつき

今日の一言

どうせ人生を生きるなら、気持ちよく生きたほうが得である。

気持ちよく生きるとはなんだろうか。死ぬときに「充実した人生だった」と思えることだろうか。

 

人生における経験と、それの持つ価値の問題を考えるとき、現代の若年層はともするとその経済的価値に主眼を置き、主観的価値を過小評価する傾向にあると思う。

 

例えば、奨学金を得るため、学校で良い態度を取る。役立ちそうな資格を取るため、勉強するなど。

 

そのような努力が実を結ぶと、お金や資格が得られる。それは一種の経験である。

 

対して、友人と語り合って、気づきを得る。当てもなく出かけて、その先で何かに出会う。親や兄弟との関わりから、学びを得る。といったことも経験と言えるだろう。

 

前者の経験は客観視され、時には数値化され、定量的に大衆から評価されうるものであるが、後者に関しては少なくとも定量的なものではなく、個人の内側に経験として積み重なるものである。そしてそういった経験こそ、その人間の人格を形成するものであると思う。

 

近頃の学生はよく言えば真面目、向上心があり、客観的評価が容易な経験を得ることに心血を注ぐように見える。しかし、個人の人生全体という観点において、より意味を持つ経験はどのようなものであろうか。

私は、個人に特有で、他者によって容易には測ることができない、時には経験した個人にとってすら言語化することが難しいような、抽象度の高い経験のもつ重要さを、しかと見つめて生きていきたい。

 

何を言いたいかって言うと、こんな平日から文系大学生の多くが海外旅行に行っていて、良いな~行きたいな~ってだけですはい。

 

 

帰路にて一人

もうすぐ大学生が終わる。いやにこの事実に目が向く日だった。

 

友人宅に泊まらせてもらい、その足で大学へ行き研究、終わってから大学の友人と4人で飲んだ。

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美味しい地ビール

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沖縄の惣菜の優しい味

 

気の置けない友人との贅沢な時間である。

 

彼らとの語らいの時間には、失いたくないと感じさせるものがある。同期という一定の同質性がありながらも、各自の性格、考え方は様々。

 

この全てが、もうあと半年で当たり前でなくなる。

 

ところで今日、卒業旅行の話題が飲み会で出たのもこの認識に拍車をかけ、つい口をついて出てしまった。

「俺らもう大学生終わるで。今までの間にさ、高校3年間が丸々過ぎたことなるねんで。」

ある人は「ほんまやな。」また別の人は

 

「そんなん言わんとってや。」

 

と言う。そう、俺だって言いたくもない。こんなことを認識したとて現実は変わらないのだ。良くも悪くも時間が過ぎていき、人はみな自らの進む方向へ行く。現代において概してそれは(少なくとも場所的に)別離の道である。

 

こんなことは前にもあったはずだ。中高の卒業など特にそうだ。しかし当時と違うのは、半年も前からこの事実がいやに気にかかることだ。

 

というのも、今回は今までと違って受験など無い。特に高校のように、受験勉強やってたら卒業してた、みたいなことにはならない。

 

卒業が迫るという事実の重さが、今感じられる。それは逆に、今とても「大学生らしい」生活をしているからなのかもしれない。これが失われる恐怖に取り憑かれていると言うこともできる。

 

思い返せばこの大学生生活はどうであったか、まだ半年はあるが、非常に安定していたと言える。サークルの会長など務めていたのがとうの昔のように感じられる。私はこのような安定した生活に幸せを感じるし、これを実現することができたのは切に周りの皆さんに恵まれたからだと感謝している。

 

ただ少し、表裏一体ではあるが、もう少し刺激があってもよかったんじゃないかという悔恨の念は残る。

 

これは全く私個人の問題だが、特に大学生の間にそれを言い訳にして、多少遊んで人生経験を積むということがあってもよいだろうと考える節はありながらも、どうにもその方向に進む勇気が得られなかったのだ。

 

そうすることが将来的に必ずしも良い方向に転がるきっかけになったかと言われれば、そうでもないのかもしれない。しかし今までの経験からすると私は常々、当時もっと遊んでいたらどんな人生だったろう、きっと今の悩みは幾分マシになっていたにちがいない、と考えたりする生き物であり、この性質は幾分生きていくに損だとは思う。

 

いくらそんな事を考えたって、もはや流れた時は戻らず、前に進むしか無いからだ。結局人間は今のところ、現実として過去に戻る術を有さないのだ。こうなったら前向いて良い将来を目指すか、あるいは振り返ったときに良い過去だったと思えるような時間を過ごすよりほかない。

 

問題意識があるかのように見せた上で、こんなふうにして自らを適当に言いくるめて、具体的な解決策を示さずに漠然と生きる。これが私の人間臭い凡人であるところの特徴である。

 

またこのように、他人に興味があるような面して、最後は臆面もなく自らを分析している。加えてそもそも日記というものは一般に非常に個人的なものであるから、そんなものをここに書いている以上、現代人の自意識の肥大の一翼を担っており自分自身に辟易とする。

 

10年前から聞いているファンモンの歌詞が、一人歩く夜道に、鼓膜から胸へと刺さる。

 

それが明るい、勢いのある歌だったとしても、対照的な夜の寂しさが、

「この明るさをまっすぐ受け止めるに耐えうる人生を歩んでいるのか」

を問いかける思考の材料へとその歌を加工する。そんなものに加工されるのは、きっとその歌にとっても本望ではないだろう

 

 

書いてみた

日記を書いてみようと思う。
ふと右上を見ると「下書き保存」「公開に進む」の文字。書いている途中経過が人に見られるわけではない、謎の安心感を覚える。

友人に、パッと出の他愛もない考えをわざわざメモする人がいる。彼のことを見習って、私もそういうことをしてみようと思う。

今日何をしたとか何を食べたとか、そういったことも大事だが、ある意味考えたことというのは、写真にも胃袋にも残らない、最も文字にする価値のあるものかと思う。特にこの文においては、専ら作者にとっての価値でしかないのかもしれないが。

ではなぜ日記をわざわざここに書くのか、なにか狙いがあるのかと言われれば、そうでもない。ただなんとなく、文字を打ってみている次第である。友人はスマホのメモに、私はここに考えの跡形を書く。ただそれだけの違いである。


手が止まったので今日はここまで。急に考えながら書くというのは案外難しいものだ。あるいはタイピングでなく手書きのほうがスラスラとかけるのかもしれない。

 

もう一時半になろうとしている。こんな時間に私は何を書いているのか。きっと明日朝になったら消しているのだろう。いや、あるいは忘れているのかもしれない。日常的に世間様に対して言葉を発信しているわけでもないので、徐々に恥ずかしさに倒されそうになる。同時に、今「倒されそうになる」としか表現できなかった自らの語彙力のなさを痛感する。

 

ブログっていいですね、文字数に制限がない。twitterみたいに起承転結を考える必要もない。ただだらだらと続けて書いていられる。使い方合ってるんかなあこれ