もうすぐ大学生が終わる。いやにこの事実に目が向く日だった。
友人宅に泊まらせてもらい、その足で大学へ行き研究、終わってから大学の友人と4人で飲んだ。
美味しい地ビール
沖縄の惣菜の優しい味
気の置けない友人との贅沢な時間である。
彼らとの語らいの時間には、失いたくないと感じさせるものがある。同期という一定の同質性がありながらも、各自の性格、考え方は様々。
この全てが、もうあと半年で当たり前でなくなる。
ところで今日、卒業旅行の話題が飲み会で出たのもこの認識に拍車をかけ、つい口をついて出てしまった。
「俺らもう大学生終わるで。今までの間にさ、高校3年間が丸々過ぎたことなるねんで。」
ある人は「ほんまやな。」また別の人は
「そんなん言わんとってや。」
と言う。そう、俺だって言いたくもない。こんなことを認識したとて現実は変わらないのだ。良くも悪くも時間が過ぎていき、人はみな自らの進む方向へ行く。現代において概してそれは(少なくとも場所的に)別離の道である。
こんなことは前にもあったはずだ。中高の卒業など特にそうだ。しかし当時と違うのは、半年も前からこの事実がいやに気にかかることだ。
というのも、今回は今までと違って受験など無い。特に高校のように、受験勉強やってたら卒業してた、みたいなことにはならない。
卒業が迫るという事実の重さが、今感じられる。それは逆に、今とても「大学生らしい」生活をしているからなのかもしれない。これが失われる恐怖に取り憑かれていると言うこともできる。
思い返せばこの大学生生活はどうであったか、まだ半年はあるが、非常に安定していたと言える。サークルの会長など務めていたのがとうの昔のように感じられる。私はこのような安定した生活に幸せを感じるし、これを実現することができたのは切に周りの皆さんに恵まれたからだと感謝している。
ただ少し、表裏一体ではあるが、もう少し刺激があってもよかったんじゃないかという悔恨の念は残る。
これは全く私個人の問題だが、特に大学生の間にそれを言い訳にして、多少遊んで人生経験を積むということがあってもよいだろうと考える節はありながらも、どうにもその方向に進む勇気が得られなかったのだ。
そうすることが将来的に必ずしも良い方向に転がるきっかけになったかと言われれば、そうでもないのかもしれない。しかし今までの経験からすると私は常々、当時もっと遊んでいたらどんな人生だったろう、きっと今の悩みは幾分マシになっていたにちがいない、と考えたりする生き物であり、この性質は幾分生きていくに損だとは思う。
いくらそんな事を考えたって、もはや流れた時は戻らず、前に進むしか無いからだ。結局人間は今のところ、現実として過去に戻る術を有さないのだ。こうなったら前向いて良い将来を目指すか、あるいは振り返ったときに良い過去だったと思えるような時間を過ごすよりほかない。
問題意識があるかのように見せた上で、こんなふうにして自らを適当に言いくるめて、具体的な解決策を示さずに漠然と生きる。これが私の人間臭い凡人であるところの特徴である。
またこのように、他人に興味があるような面して、最後は臆面もなく自らを分析している。加えてそもそも日記というものは一般に非常に個人的なものであるから、そんなものをここに書いている以上、現代人の自意識の肥大の一翼を担っており自分自身に辟易とする。
10年前から聞いているファンモンの歌詞が、一人歩く夜道に、鼓膜から胸へと刺さる。
それが明るい、勢いのある歌だったとしても、対照的な夜の寂しさが、
「この明るさをまっすぐ受け止めるに耐えうる人生を歩んでいるのか」
を問いかける思考の材料へとその歌を加工する。そんなものに加工されるのは、きっとその歌にとっても本望ではないだろう